■解説文
1946年8月に帰村が許され、5次にわたる移動でほとんどの村民がふるさと読谷村に戻ってきました。しかし、帰村許可はは条件付きのものが多くアメリカ軍の都合で移動させられたりもしました。1947年の移動許可書には「軍道路六号線から西部は、軍の都合で立ち退きを命ぜられたらいつでも立ち退きしなければならない」とありました。1950年に朝鮮戦争がおこると沖縄の基地は重要性を増し、アメリカ軍による新たな基地の建設が始まりました。楚辺と渡具知の2集落に再接収の通知がなされようやく落ち着いた人たちに衝撃を与えました。この通牒に対し楚辺の住民は、移動した場合の水の確保や学校教育、住居、食糧不足などの諸問題を一つ一つ丁寧にあげ、村長に陳情書を出しました。それは群島政府を通じアメリカ軍に届きましたが、移動は十分可能であるとして却下・返却されました。これに対し、陳情書が却下されたことに対する区民の失望や不安の状況を述べ前回の内容により切実な状況をつづった陳情書を提出しました。しかし、アメリカ軍の返事は「同地域(楚辺)が米国空軍の緊要施設設置のために指定されているという理由で却下されたもので、この地域の使用目的はその性質上‘空軍の計画に何等変更をも加えてもらうことのできないもの’」とし、読谷村当局に対し「陳情は却下されたのでこれ以上‘余計な悶着’をおこさずすみやかに退去するように通知してもらいたい」というもので住民の切実な願いをこめた陳情に対し軍の方針だから立ち退きなさいという高圧的なものだったのです。しかたなく住民は村内の他の土地に移動しました、中には遠く離れた八重山に開拓移民として移住した人たちもいました。住民を立ち退かせた後には情報・通信の分析を目的とするトリイ通信施設がつくられました。日本復帰後の1973年施設の南側が返還され渡具知の人たちは旧集落に復帰することができましたが楚辺の旧集落の施設は残されいまだに復帰できず、基地から発生する様々な問題をかかえています。 |