■解説文
渡具知は戦前沖縄八景の一つに数えられた泊城を要する風光明媚な集落でした。比謝川の河口近くにあり、渡具知東原遺跡や木綿原遺跡など古代の遺跡が見つかったり、薩摩軍の上陸地点になるなど歴史的に重要な位置をしめていました。沖縄戦の際もアメリカ軍の上陸地点となり、戦後は読谷村の全域が占領地になっていたため立ち入ることができませんでした。1946年の8月から徐々に帰村が許可され、1951年の11月にようやくふるさと渡具知への居住が許可され、翌年の3月には移動を完了しました。しかし、朝鮮戦争が始まると沖縄の基地の重要性が増し、アメリカ軍は新たな基地建設のため土地の接収を始めました。渡具知でも53年の1月に立ち退き命令が出され、ようやくふるさとに戻った人々に衝撃を与えることになりました。3月には立ち退き中止の請願書を提出しましたが、アメリカ軍は4月に「土地収容令」を公布し、沖縄各地で武装兵による土地の強制接収を始めました。8月には渡具知にも集落の取払いについての通達があり、再び嘆願書を提出しましたが受け入れられず、立ち退きに応じない場合は「土地収容令」を適用されると言明されたため仕方なく立ち退きに応じることになりました。54年の1月〜4月にかけて比謝・西原地区に移住しました。渡具知の集落にはトリイ通信施設が建設されました。11月には渡具知の農耕地が解放されましたが、自由に立ち入りができず、アメリカ軍の都合でいつでも使用許可を取り消される「黙認耕作地」でした。1972年5月に沖縄は日本に復帰しました。しかし、渡具知の軍用地はすぐには返されず、住民や村の請願や解放要請により73年の6月にトリイ通信施設の一部の返還が合意され、9月にようやくふるさと渡具知の集落が解放されました。地籍の確定や宅地地域の復元など様々な問題を乗り越え住宅の建設が許可されたのは1977年12月のことでした。 |