■解説文
飛行場をはじめアメリカ軍の施設が多かったため、村民の復帰が許されなかった読谷村でしたが、村民の切なる訴えと、沖縄民政府当局の尽力で、1946年8月にようやく波平と高志保の一部が解放されました。村長は早速600人の「読谷山村建設隊」を編成し、郷土の再建に取り組みました。村の復興のため勢いこんでやってきた建設隊でしたが、村の状況は想像以上に厳しく、見渡す限りアメリカ軍施設が広がり、戦前の面影は全くありませんでした。木は切り倒され、屋敷の石垣は壊され、すすきや雑草がおい茂り、山羊や牛馬の骨などが放置されるなど全くの廃虚と化していて、何から手をつけていいかわからない状況でした。それでも建設隊の人たちは「協力して村再建に挺身し、理想郷を建設する」ことを誓い合い、まず、戦災をまぬがれた家を修理して宿舎にあて、復興の作業をすすめていきました。散乱している廃物をかたづけ、規格住宅を建設し、埋められた井戸を掘り返したり、便所をつくったりして生活の基盤を整えていきました。また、それを支えるために、野生のイモや野菜を採ってきて食糧にあてるなど再建の作業は秩序正しく進んでいきました。ところが、8月31日にアメリカ軍が突然建設中止の命令を出し、一両日中に立ち退くように命じたため、建設隊は村内から引き上げました。9月11日には中止命令が解かれると同時に住居許可地域も広げられました。9月16日には700人に増えた建設隊員は再び、村再建の仕事にとりかかりました。 |