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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

テーマ1:復興にむけた新たな歩み

テーマ2:村民の戦後生活

テーマ3:行政文書から見た村づくり

テーマ4:米軍にほんろうされた農民 −土地の再接収−

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

広く

深く

 

2.村外に設けられた仮役所

■解説文

 1945年の4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、上陸地点となった読谷村では激しい砲爆撃のため家は焼かれ、多くの人が村外に避難しました。戦が終わり生き残った人々は自分達の村へと戻ろうとしましたが、村のほとんどがアメリカ軍の施設に接収され、立ち入ることができなくなっていました。そのような中、1946年4月知花英康氏が初代の村長に任命され、読谷山村仮役所が胡差(現在の沖縄市)に設置されました。そこで4月30日に沖縄民政府知事に対し、村民の村への復帰を要請しました。それは「沖縄各地の市町村が旧地に復帰し復興に励んでいるのに、読谷村のみ帰村できない状況を述べ、その理由とされている、“受け入れ地区の隊長は海軍、駐留軍は陸軍なので交渉が困難、爆発物埋蔵のため危険”について“労をおしまず交渉する、爆発物は取り除く”などのことをすればいい。アメリカ軍が駐留しているため帰村が不可能ならば、読谷に近い越来・美里の一地域にすまわせてはどうか。それすらもかなわぬなら放置されている村民は精神・物質面ともに生活苦が増大するのみです。このような状況では村長の任命も無意味であり、沖縄の政治上又人道上もいいことではないと憂慮しています。多大な犠牲を払った読谷村民の状況を考慮し、一日も早く移動促進できるようにお願いします」という切実なものでした。要請書を送ると同時に各地に散らばる村民と連絡をとり、帰村の準備を整えました。 当時、村内で焼け残った家屋を近くの収容所の人たちが壊して持ち去ったり、畑に残る芋などの農作物を荒らしたりしたため、それを保護するため仮役所の最初の仕事は胡差と石川から交代で監視員を出すことでした。仮役所は12月には村名を読谷山村から読谷村に変更しました。

■写真解説

役場職員の誓約書

村民の移動促進方に関する請願

村名改称申請書

 

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更新日:2008年3月18日