■解説文
戦争のために沖縄本島北部に避難していた読谷村の人々は、終戦後、村の全域が立ち入り禁止になっていたため帰村できず、各地の収容所に収容されていました。収容所内では、親を亡くした子供たちの心がすさんでいたり、砲弾の下を逃げまどい戦禍を生きのびた子供たちの傷ついた心をいやさなければと、学校も開設されるようになりました。しかし、戦争で全てを失ったため、校舎もなく、教室は大木の木陰等を利用した青空教室や軍から払い下げられた古いテントや古い木材で日陰を作った教室でした。教科書はおろか黒板、鉛筆ノートなど何も無く、ありあわせの板に墨を塗って作った黒板を使い、地面に砂文字を書いて授業を行っていました。音楽の時間は海辺で歌を唄っていました。1946年の8月に波平・高志保区に居住が許可され、村民の移動が始まり、12月には読谷初等学校が開校し、読谷村における戦後教育が始まりました。 |