■解説文
アメリカ軍の上陸地となった読谷村では、激しい砲撃で、家を焼かれ、農具や衣服などの生活必需品も失いました。人々は生活のため知恵を絞り、物の無い時代を生き抜いてきました。村内には日本軍の飛行場があったため、破壊された飛行機の残骸が残っていました。又、座喜味には戦争の残骸捨て場があり、嘉手納の飛行場からも運ばれてきていました。その飛行機の資材を利用して、ハガマ(炊飯用の釜)、アイロン、洗面器、香炉、きゅうす、ヤカン等のジュラルミンを利用した製品を作っていました。1946〜49年頃のわずか3〜4年の間で、最盛期には村内に7つの工場ができて、その製品は広く県下に出回り戦後第一の産業と言えるほど盛況を極めました。しかし、材料となる飛行機の残骸が取り尽くされ、次第に衰えていきました。 |