■解説文
アメリカ軍が上陸してすぐに、捕虜になった人々は各地に設置された「収容所」に送り込まれました。荒れ狂う「鉄の暴風」をくぐり抜け、家族や友人を亡くし、うちひしがれた沖縄の人々にとっては、収容所生活も安堵としたものではありませんでした。雨露をしのぐだけのテント小屋に押し込められ、地面に枯れ葉をしいただけの収容所での暮らしは、わずかな食糧で毎日を暮らさなければならず、栄養失調やマラリアなどの病気などで亡くなる人も多かったのです。難民収容所にいた人々は、1945年10月ごろから徐々にそれぞれのふるさとへ帰ることが許されましたが、読谷村には飛行場をはじめとするアメリカ軍施設が多かったため、帰村がおくれました。ほとんどの集落が軍用地にとられていたため、やむをえず他の地域へ移り住み、村の再建に取り組みました。 |