■解説文
戦後、村の全域がアメリカ軍の基地に接収され、各地の収容所で暮らしていた読谷村の人々でしたが、1946年の8月に帰村が許され、徐々に元の集落へと帰り初め、47年の11月にはほとんどの村民が再び郷里に定住しました。しかし、楚辺や渡具知などの集落では1952年に基地建設のためにアメリカ軍に土地を接収され強制的に立ち退かされました。家も畑も取り上げられ、新しい土地に移った住民は食べるものにもことかくほどの状態でした。こうした混乱の中、楚辺では「八重山に行けば土地がもらえる。」という情報をもとに八重山開拓移民が送りだされました。8月22日に読谷村の渡具知港を出発し、24日に石垣島の北部にある富野の海岸に着き、道路も桟橋も無い入植地での生活が始まりました。島での生活は、4・5年の間は山から木を切ってきて作った掘建て小屋(テント)で寝泊まりするなど厳しいものでした。入植当時は何も無い原っぱに投げ出されたかっこうで、割り当てられた土地を共同で開墾していきました。開墾地は食糧も少なく、重労働で体力を消耗した住民に風土病のマラリアがおそいかかり、多くの犠牲者がでました。台風やイノシシ、害虫の被害など多くの困難な状況がありましたが、移民根性でそれらを吹き飛ばし、陸稲・パイン・バナナ・サトウキビなどを栽培しながら米原の集落を作り上げていきました。 |