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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

テーマ1:復興にむけた新たな歩み

テーマ2:村民の戦後生活

テーマ3:行政文書から見た村づくり

テーマ4:米軍にほんろうされた農民 −土地の再接収−

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

広く

深く

 

3.切り離された沖縄 −講和条約発効時(1952年)−

■解説文

 対日講和条約(サンフランシスコ条約)は、1951年9月8日にサンフランシスコで署名され、翌1952年4月28日に発効しました。同条約第3条により、北緯29度以南の奄美・沖縄諸島は日本から行政分離することが決定されました。アメリカ政府の狙いは、日本を「対ソ封じ込め」の重要な戦略拠点とすることにあり、なかでも沖縄は「アメリカ大陸以外の基地の中で最強」の基地として編成されていったのです。1950年に朝鮮戦争が始まると沖縄のアメリカ軍基地はフル回転の状態になり、沖縄各地で住民に解放した土地を新たに銃剣とブルドーザーで、強制接収し基地の拡張・整備をすすめました。読谷村内でも楚辺、渡具知の集落が立ち退きの対象となり、復興に向かいつつあった住民の反対要請にもかかわらず、強制的に他の土地に再び移動させられることになりました。なかには住み慣れたふるさとの土地を離れ、八重山に移住し、開拓移民となった人もいました。
 そして1946年11月20日、最初の5千人が故郷に帰りました。その後、楚辺(そべ)、大木(おおき)、座喜味(ざきみ)、宇座(うざ)、渡慶次(とけし)、瀬名波(せなは)のそれぞれ一部への居住が許可されていきました。

■写真解説

1952年のアメリカ軍基地

立ち退き前の楚辺の集落風景

整地を終えた牧原新集落

 

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更新日:2008年3月18日