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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

テーマ1:日本の帝国主義と沖縄

テーマ2:読谷村の戦前の暮らし

テーマ3:迫りくる戦争

テーマ4:疎開と避難

テーマ5:日米の戦闘

テーマ6:住民の集団死

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

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5.沖縄本島中部・南部の戦争

■解説文

 1945年4月1日、沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、北部方面と中南部方面の二手に分かれて進攻しました。中部方面では、4月7日まではたいした攻防戦もなく南下し、日本軍の主陣地をめざしていました。
 首里城下の日本軍司令部壕の北5qの嘉数高地には、日本軍(第62師団)の陣地壕がありました。8日、日本軍とアメリカ軍の組織的戦闘がはじまり、40日間におよぶ死闘がくりひろげられました。司令部を守る日本軍は、爆弾を抱えて戦車に飛びこむ肉弾戦など必死の抵抗をし、一進一退の戦闘で、両軍に多大な死傷者をだしました。
 司令部が摩文仁に後退した5月下旬、南部には敗走する日本兵と砲弾に逃げまどう住民たちの姿がありました。刈り残されたサトウキビは逃げまどう住民たちにとって、命をつなぐ食物であり、石灰岩の暗いガマ(壕)は砲弾から身を守るための避難場所でした。南部のたくさんのガマは、軍病院壕や住民の避難壕となっていましたが、なかには、住民たちが敗残兵に避難壕を追いだされ、鉄の暴風といわれた戦場に放りだされることもありました。
 6月22日には摩文仁の洞窟で牛島満司令官・長勇参謀長が自決し、組織的戦闘は終わりましたが、アメリカ軍が掃討作戦の終結宣言をしたのは、7月2日でした。

■写真解説

中南部の戦闘(米軍の侵攻)

魂魄の塔

沖縄本島南部の海岸

 

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更新日:2008年3月18日