■解説文
1945年4月1日、沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、北部方面と中南部方面の二手に分かれて進攻しました。中部方面では、4月7日まではたいした攻防戦もなく南下し、日本軍の主陣地をめざしていました。 首里城下の日本軍司令部壕の北5qの嘉数高地には、日本軍(第62師団)の陣地壕がありました。8日、日本軍とアメリカ軍の組織的戦闘がはじまり、40日間におよぶ死闘がくりひろげられました。司令部を守る日本軍は、爆弾を抱えて戦車に飛びこむ肉弾戦など必死の抵抗をし、一進一退の戦闘で、両軍に多大な死傷者をだしました。 司令部が摩文仁に後退した5月下旬、南部には敗走する日本兵と砲弾に逃げまどう住民たちの姿がありました。刈り残されたサトウキビは逃げまどう住民たちにとって、命をつなぐ食物であり、石灰岩の暗いガマ(壕)は砲弾から身を守るための避難場所でした。南部のたくさんのガマは、軍病院壕や住民の避難壕となっていましたが、なかには、住民たちが敗残兵に避難壕を追いだされ、鉄の暴風といわれた戦場に放りだされることもありました。 6月22日には摩文仁の洞窟で牛島満司令官・長勇参謀長が自決し、組織的戦闘は終わりましたが、アメリカ軍が掃討作戦の終結宣言をしたのは、7月2日でした。 |