■解説文
1945年3月17日、硫黄島を占領したアメリカ軍は、26日沖縄本島の西方40kmにある慶良間諸島に上陸しました。 日本軍は飛行場守備を放棄し、内陸の丘陵地帯での攻防戦に備えていました。 アメリカ軍は、沖縄本島上陸前におよそ4万発以上の砲弾を打ち込みました。日本軍の迎撃のないことを確認し、4月1日、本島西海岸の読谷・北谷の浜から上陸を開始しました。北飛行場と中飛行場を占領し、3日には東海岸に進出、沖縄本島を南北に分断しました。 西海岸沿いに北に向かって進攻したアメリカ軍は、13日には最北端・辺土岬に到達していました。16日、伊江島での激戦は住民を巻き込み、軍・民ともに多くの死傷者を出しました. 戦闘が続くなか、北部(国頭)一帯では、中南部から避難した住民と地元の住民たちが、マラリアの恐怖と飢餓に苦しみながら山野を逃げまどっていました。 その上、日本の諜報機関が組織した遊撃隊が住民たちを監視し、捕虜になることさえ許しませんでした。 読谷村には2月、国頭退去の命令が出ていましたが、艦砲射撃が激しくなった3月下旬、村民はあわてて荷づくりをして国頭に避難しはじめました。しかし、各字(あざ)のガマや亀甲墓などに隠れ、読谷村に残った人たちも少なくありませんでした。 |