■解説文
1944年7月、マリアナ諸島(テニアン・サイパン)がアメリカ軍に占領されると、B29の発進基地となり日本本土への爆撃が激しくなっていきました。10月末、日本軍は、フィリピンのレイテ沖海戦で主力艦・航空機を喪失し、石油などの輸送が不可能になりました。大本営は作戦計画を見直し「皇土特ニ帝国本土ノ確保」のため硫黄島・沖縄を本土防衛の前縁と位置づけ、防波堤としたのです。沖縄守備軍は、沖縄を「本土」として守り抜くということではなかったのです。 台湾守備軍の強化のため、沖縄から精鋭部隊の第9師団(武部隊)が移動したあと、沖縄への兵力の補充は望めませんでした。 1945年2月、現兵力をもって沖縄でアメリカ軍と決戦することが決定的になりました。日本軍は住民を根こそぎ動員することによって兵力の不足を補い、アメリカ軍との戦闘を長引かせ、本土決戦を一日でも遅らせる方策でした。水際作戦を変更し、敵を内陸部まで引き込んで闘う持久作戦を展開する方針をとりました。 住民は戦争の最前線で軍隊と運命をともにすることになったのです。 |