■解説文
1944年7月、南西諸島へのアメリカ軍の進攻が必至となり、日本政府は戦闘の足手まといとなる老幼婦女子を10万人県外へ疎開させる計画をたてました。南九州に6万5千人、台湾へ1万人余りが送りだされましたが、九州までの600qの道のりは、アメリカ軍の潜水艦と艦載機の待ち受ける危険な海域でした。 読谷村でも疎開者の募集が行われましたが、家族と離れて見知らぬ土地へ行く不安から人数が集まりませんでした。結局、学校側の熱心なすすめで、52名の学童が宮崎県の加久藤国民学校へ疎開しました。なれない土地でのくらしは、親元を離れたさみしさと食糧不足や寒さなどで、苦しいつらい生活でした。 |