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常設展示室

第1展示室:読谷村と沖縄戦

第2展示室:抑圧された占領下の時代

第3展示室:基地の中のむらづくり

第4展示室:基地の中に打ち込んだ文化のくさび

第5展示室:平和村づくりの推進

第6展示室:21世紀グランドデザイン

広く

テーマ1:広く −琉球処分−

テーマ2:広く −帝国主義の展開−

テーマ3:広く −第一次世界大戦と日本の情勢−

テーマ4:広く −アジア・太平洋戦争への道−

テーマ5:広く −第二次世界大戦−

深く

 

4.沖縄戦と本土決戦

■解説文

 日本を降伏させるために、本土侵攻を想定していたアメリカ軍はアイスバーグ作戦(沖縄攻略)・オリンピック作戦(薩南半島・大隅半島)・コロネット作戦(神奈川・房総半島)を計画していました。45年3月には沖縄攻略が始まり、住民たちは砲弾の嵐にさらされ3カ月におよぶ激戦のなか、軍人を上回る死傷者をだし4人に1人が犠牲になったといわれています。緑豊かな沖縄島は琉球石灰岩がむきだしになり、白っぽい砂埃と焼け落ちた建物の残骸の島となりました。沖縄戦は本土決戦の時期を一日でもひきのばすため、時間稼ぎの場として、捨て石にされたといわれています。日本軍は広げすぎた戦線に兵士を送っていたため、本土では兵力もなく物資もないなかで松代に大本営を移すための堅固な洞窟を堀り、南九州や関東地方などで防御の体制を急いでいました。砲弾も食糧もすべて現地でまかなえという苛酷な状況下で、沖縄の住民たちは軍隊に協力し逃げ遅れ、砲煙弾雨にさらされ追い詰められ悲惨な最期となったのです。

■写真解説

アメリカ軍の日本侵攻作戦

沖縄戦の経過

保護された住民

 

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更新日:2008年3月18日