■解説文
1940年ごろ、中国の蒋介石軍への援助物資を輸送するルートの一つとして仏印(フランス領インドシナ、現在のラオス・ベトナム・カンボジア)がありました。日本軍は援蒋ルートを断ち切るため北部仏印へ進駐しました。翌年アメリカは日本への石油全面禁輸にしたため、石油を輸入に頼る日本は南方進攻作戦を決意し、開戦にむけて基地建設をすすめました。開戦に踏み出した日本軍は、41年12月8日午前1時ごろマレー半島のコタバルなど数ヶ所から上陸し、イギリス軍・タイ軍と交戦、マレー半島を占拠しタイ国に軍隊を進駐させました。タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を建設し陸上補給路を確保する軍用鉄道を短期で完成させました。苛酷な強制労働で捕虜や現地の労働者たちに重労働を強いたことと食糧・医療の不足で数多くの犠牲者をだしました。東アジアの海の要石セレター軍港(シンガポール=昭南)を占領、戦略物資の石油を確保するため南方の油田を手にいれました。43年には産油量は789万klに達して、その29%がシンガポールを経由して日本に送られました。しかし、44年になるとアメリカ軍のマニラ進出でアメリカ潜水艦や航空機からの攻撃で日本のタンカーは撃沈され、本土に石油を輸送することが困難となってきました。本土では石油が不足し、バスまでが薪を使って走っていました。 |