■解説文
1945年2月10日、戦局が緊迫してきたことで10万人の国頭への立退き計画が緊急に決められました。 山原一帯には、中南部の住民たちが疎開する地域を、各村ごとに割当て、指定地が決められていました。住民たちにとって、知らぬ土地へ移動する不安も大きく、読谷村の人々が北部への避難をはじめたのは、アメリカ軍の艦砲射撃がはじまる3月23日ごろでした。 山間地で田畑の少ない山原に、大勢の住民が避難したため、たちまち食料はなくなり、口に入るものはすべて食べ尽くしたのです。衰弱した体にはマラリア(伝染病)が襲い、病気や飢餓で死んでいった人たちも多かったのです。中南部から山原に疎開した人々は、およそ3万人だったといわれています。 読谷村では、国頭村奥間を中心に疎開者をの受け入れをすすめていましたが、避難せず、村に残った住民たちも多かったようです。 |