喜納・親志・座喜味・伊良皆
【喜納】
街道筋に立地した古い集落であり、那覇から山原への交通の要衝地として近世に読谷山間切番所が置かれ戦前までは村の中心的役割を担っていた。戦後、喜名地域東部が米軍基地に接収されたため住民は国道58号西側の現在の位置に移転を余儀なくされるが、喜名の精神である「和衷協力」の旗印のもと先進的なむらづくりを営んでいる。
【親志】
廃藩置県後多幸山近くの山間部に士族層が入植。戦後、米軍基地に接収されたため座喜味から喜名までの間に移転を余儀なくされた。現在は、親志地内にある「ヤチムンの里」に陶芸家が集住。県内でも有数の陶芸の産地となっており、県内外からのヤチムンファンで賑わっている。これまでの住宅開発や「読谷道路」の整備により転換期を迎えつつある地域である。
【座喜味】
2000年にユネスコの世界遺産に登録された座喜味城跡が頂にある丘陵南傾斜面に集落を形成。首里王府時代は、読谷の中心的な地域であった。戦後、1951年に集落の復興が開始されると、歴史遺産と環境美化の地域づくりが評価され、1987年には農村アメニティーコンクールで国土庁長官賞を受賞。2005年には「沖縄ふるさと百選」に選出されている。
【伊良皆】
県の幹線道路である国道58号、そして残波岬周辺のリゾート地区への観光のメインルートである県道6号線が接続し、交通の利便がよく商業区域を形成している。また、県立読谷高等学校や、村立古堅中学校が立地し文教地区となっている。組踊や伝統芸能も豊富で、子どもたちによる伝統芸能継承活動も積極的に取り組んでいる。
波平・上地・都屋・高志保
【波平】
戦前は製糖を中心とした農村だったが、戦後は村内でいち早く居住が許可され、行政、教育、経済の中心地となった。集落の東側には東門(アガリジョウ)があり、昔から豊年祈願や、いこいの広場として大切にされてきた。東門で行われる「十五夜」(観月会)は盛大で、波平を代表する行事になっている。
【上地】
村内でも古い集落の一つ。戦後は三線づくりが盛んとなり、上地出身者がうるま市や、沖縄市などで三線店を営んでいる。現在でも上地に2つの工房がある。2002年に整備した「キジムナー広場」がコミュニティの拠点となっており、地域の子どもからお年寄りまでみんなが集ういこいの場となっている。
【都屋】
琉球藩設置前後に移住してきた士族によって形成された集落。読谷村唯一の漁港があり、本村漁業の中心地として、養殖漁業の振興、海洋レクリエーション事業などに取り組んでいる。返還された米軍基地跡地に、保健、医療、福祉施設が建設され、その拠点地区となっている。
【高志保】
戦後、いち早く帰村が許可されたため人口が一挙に集中。商店街や銀行、農協等が立地し、村の中心的な通りとなった。海岸線はリゾート開発が進められ、地域密着型の観光地づくりが展開されている。民俗芸能「馬舞」は現在まで400年間継承されており、村内に限らず、県外、国外、多くの場所で演舞されている。
渡慶次・儀間・宇座・瀬名波
【渡慶次】
「おもろさうし」に「とけす」と表記される古くからの集落。ゆいまーる(協調・和衷・助け合い)精神のもと、農業生産、伝統芸能、環境美化活動において、老若男女が一体となったむらづくりを展開していることが認められ、2005年、沖縄県で初めてとなる農林水産省による天皇杯を受賞した。
【儀間】
渡慶次から分村した集落。戦後、集落地が米軍により接収されたため、長浜地番に建設された公民館の周辺を中心に居住している。村内でも農業への取り組みが活発な地域で、土地改良事業によって大規模な基盤整備が行われている。昭和初期まで演じられていた「南ヌ島」が60年ぶりに復活を遂げるなど、各団体の芸能の継承、後継者育成にも力を入れている。
【宇座】
残波岬を有し、広大な残波岬公園が整備されるとともに、大規模な土地改良事業が実施されている。中山王察度の弟として、初めて中国(明)に渡り、琉球の大交易時代の先駆けとなった泰期は宇座の出身と言われており、彼の偉業をテーマにした創作「進貢船」が読谷まつりの中で壮大に演じられている。
【瀬名波】
戦後初の沖縄県知事で読谷村名誉村民の屋良朝苗氏の出身地。鏡地原一帯は、海を見晴らす景勝地で、沖縄海岸国定公園に指定されている。
村内でも特に古い芸能の里で、今でも数多くの伝統芸能が伝えられている。また、瀬名波独特の所作や演出があり、他地域の芸能と違った特色を持っている。
長浜・楚辺・古堅・渡具知
【長浜】
長浜川河口に立地した集落。天然の良港があったといわれており、読谷山花織、南蛮甕の技法、民俗芸能のチクタルメー(作田米)やフェーヌシマ(南ヌ島)がこの港から伝わったといわれる。1995年に沖縄県最大の農業用ダム「長浜ダム」が完成し、長浜川土地改良区等の圃場へ農業用水を供給している。
【楚辺】
戦後、米軍基地トリイステーションとして接収され、北西側の現在地に集団移転を余儀なくされた。村内初の公共下水道の整備により居住環境の改善が図られている。令和2年には、待ち望んでいたユーバンタ公園が完成した。
三線の始祖であるアカインコ(赤犬子)終焉の地とされるアカヌクー(赤犬子宮)では、旧暦9月20日にアカヌクー祭が行われている。
【古堅】
沖縄戦中に米軍の野戦病院が置かれ、戦後は嘉手納航空隊の家族住宅用地(嘉手納住宅地区)として接収された。同地区は復帰後の1977年に返還され、1982年から居住が始まった。また、大木-水釜線・比謝川大橋が整備され、嘉手納町市街地と直結し、南の玄関口として現在住宅立地が進んでいる。1999年には待望の公民館が完成し、新たな拠点として地域コミュニティーづくりが行われている。
【渡具知】
比謝川河口の北岸台地上にあり、沖縄戦の米軍上陸地点となった。泊城から比謝川沿いは比謝川沿岸整備計画の一環として、泊城公園が整備され、多くの家族連れが訪れている。スイカ、メロン、花卉など、集約型の農業が発達し、1995年にはゆたかなむらづくり部門で農林水産大臣賞を受賞している。
大木・比謝・大湾・比謝矼
【大木】
1935年にできた比較的新しい集落。集落形態は散村だったが、ほかの地域からの転入が増え、現在の密集した居住地となっている。「読谷道路」の整備によって読谷村の新しい玄関口となることから、更なる発展が期待される。
大木出身者に沖縄の戦後復興に貢献した琉球政府初代行政主席で読谷村名誉村民の比嘉秀平氏がいる。
【比謝】
比謝の語源は“東”の意。読谷村の東側にあることからこの地名が付いたといわれている。比謝出身の佐久川清助が選抜育種した「佐久川いも」が明治末期から、昭和にかけて主要品種として沖縄の農業発展に貢献した。転入者の居住が多く、県営比謝団地をはじめとした住宅地が広がっており、南の玄関口として更なる発展が期待される。
【大湾】
国道沿いは市街地が進み、米軍基地にも近いことから外国人住宅などが建ち、密集した居住地となっている。比謝川・長田川に近く、緑豊かな地域であり、潤いある住環境づくりにむけて地域住民が積極的に緑化・美化運動に参加している。
【比謝矼】
各地からの移入者によって街道沿いに開かれた集落。1914年に大湾から独立発足した。戦前は嘉手納とつながる港町、商業地として大いに栄えたが、戦後は米軍基地接収や道路拡張のため旧地に戻ることはできず、分散居住を余儀なくされた。住民の団結により1969年に公民館を建設。活動拠点として現在もゆいまーる共生事業や各種行事を行っている。
長田・牧原・大添・横田
【長田】
廃藩置県後、山間地に入植した屋取の集落。米、養蚕、茶の栽培が盛んだった。また長田川の豊富な水を利用して水車が整備され、製糖、精米も行われていた。戦後は地域全域が米軍基地嘉手納弾薬庫として接収され、現在地の大木及びその周辺への移住を余儀なくされた。少人数であるが故、地域活動は皆が家族的な雰囲気で行っており、老いも若きも各種行事に積極的に参加している。
【牧原】
牧原はかつての王府時代の牧跡(まき=牧場)に入植してできた集落。1928年には県下で初めて謹概施設として一万坪の貯水池が造られ、トロッコ軌道も整備されるなど、農業の先進地として活況を呈した。戦後は地域全体が米軍基地嘉手納弾薬庫として接収されたため、現在地の伊良皆及び比謝あたりに移り住んでいる。周辺の住宅地化が進むにつれ、他地域からの転入者も増加している。
【大添】
民間の住宅団地が集中して開発されたことに伴い、新しい住宅地に大添として誕生した。歴史は浅いが、結束力があり、開発地区におけるコミュニティーづくりの先進地区として注目されている。住民主体のまちづくりが行われており、住民の手作りで建てられた公民館はその象徴となっている。
【横田】
振興集宅地自治会が合併し誕生。読谷村で最も新しい自治会。もともとの読谷村出身者は少なく、全国各地の移住者で構成されている。「自分たちの地域は自分たちで創る」を合言葉にコミュニケーションを大切にする住みよい地域づくりが取り組まれている。