2014年1月1日 日本一人口の多い村「読谷村」誕生
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跡地利用推進課

基地被害と闘い1

不発弾処理場撤去の闘い(S.45~S.53年)

 座喜味・長浜・親志の住宅附近に不発弾処理場からの破片が落下するという事故が相つぎ、昭和45年、不発弾処理作業の即時中止と処理場の撤去を求める村民運動が広がる。
 不発弾処理場入口にムシロ旗を立てた村民が座り込むなどの運動は、村・村議会・村民が一体となってさらに、強力に展開され53年5月軍用地の返還を勝ち取った。

跡地利用―ヤチムンの里・沖ハム工場・長浜川ダム

アンテナ基地建設反対の闘い(S.51年~S.52年)

 昭和51年7月、読谷補助飛行場内(楚辺通信所)への戦略通信アンテナ基地建設の着工が発覚されると村は、工事の調査をし楚辺通信所へ工事中止の要請をした。その後も米軍・那覇防衛施設局への要請を行ったが工事は進められていった。村・村議会、読谷飛行場用地所有権回復地主会が反対闘争に立ち上がり、現地でのすわり込み、村民大会が開催された。この闘いは、「1.地主への土地の返還がおくれる。2.村の基本構想に基づく土地利用ができなくなる。3.村の55%が基地であり、これ以上の基地拡大を認めることができない」ことの理由のよるものであった。その後何回となく中止要請が行われ、最終手段として当時の大統領ジミ―・カーターへ直訴状が送られた。
 昭和52年、防衛施設庁はアンテナ基地の建設断念を発表した。

跡地利用―運動公園、平和の森球場、多目的広場

楚辺兼久ビーチ拡張、米軍占用使用反対の闘い(S.57年~)

 昭和57年、米軍はトリイ通信施設前の楚辺兼久ビーチの拡張の動きを見せた。拡張により黙認耕作地がなくなり、さらにこれまで楚辺区と共同利用してきたビーチの占用をももくろんだこの米軍の拡張工事に村や楚辺区民も計画の中止を要請してきた。
 この運動のさなか、昭和59年の3月にはトリイ通信施設への米陸軍特殊作戦部隊(グリーン・ベレー)の配属も明らかになり、新たな基地強化の反対運動も同時に進行している。

グリーンベレー配属阻止の闘い(S.59年3月~)

 昭和59年3月、トリイ通信施設へ米陸軍特殊作戦部隊(通称グリーン・ベレーと呼ばれる)の配備が明らかになった。グリーンベレーは、戦争の仕掛人、悪魔の部隊と恐れられた悪名高き部隊で村では基地の強化につながるものとして配備の中止を要請し、同年10月18日に古堅小学校で「米陸軍特殊作戦部隊配備阻止、村民大会」を開催し創隊式の行われるトリイ通信施設前で抗議行動を展開した。
 1974年6月、沖縄を撤退して以来、再編され再び沖縄に配備されたグリーンベレーに対する反対運動は、尚継続中です。

読谷補助飛行場におけるパラシュート降下演習の反対闘争(S54~H11)

 今日まで読谷補助飛行場におけるパラシュート降下演習により多くの事件・事故が発生した。

 主な事故は次のとおり

 昭和40年 6月 自宅の庭先で小学校5年生の少女がパラシュートで落下してきたトレラーに押しつぶされて死亡する事故が発生。
 昭和41年11月 角材が落下し民家の屋根をぶち抜き床上に激突。
 昭和54年11月 7kgの鉄魂のおもりをつけたパラシュートが民家から13mの距離に落下。
 昭和56年 4月 演習場から大きくはずれ古堅小学校の朝礼をしている生徒の頭をかすめ黙認耕作地に落下。
 平成 4年12月 民家の庭先に米兵が落下。
 平成 5年11月 提供施設内の通勤通学路に米兵が落下。

 このように村が調査したものだけで30件以上の事件・事故が発生している。

 パラシュート降下演習の阻止闘争は、昭和54年の7kgの鉄魂の事故により実力闘争の気運が盛り上がってきた。このままパラシュート降下演習が実施されると第二の死亡事故が発生する。村民の不安と怒りは頂点に達してきた。村内16団体で実行委員会を結成し、村民総ぐるみの長い(20年)闘いとなった。
 実力阻止闘争は、時には早朝、夜間と演習場内に入り込み、軍用トラックの進入阻止、降下してきた米兵に直接抗議をするなど激しい闘争であった。 そこでは機動隊との衝突もあり排除もされた。
 このような村民のねばり強い反対運動の結果、日米両政府で返還に係る作業が進められ、平成6年6月16日、日米合同委員会は施設特別委員会の下に「読谷補助飛行場特別作業班」の設置に合意した。
 平成7年5月、日米合同委員会は読谷補助飛行場特別作業班の勧告を承認した。勧告の概要(読谷補助飛行場を返還するため次の措置を講じる。1.落下傘降下訓練機能をキャンプハンセン宜野座ダム隣接地(宜野座村惣慶)に移設、訓練中宜野座ダムに救助艇を待機。2.滑走路修復訓練機能を嘉手納弾薬庫地区内に移設。3.楚辺通信所のアンテナ及び楚辺通信所の保守区域を既存の施設・区域内に移設することとし、その移設先について引き続き検討する。)
 平成7年6月、日米合同委員会は読谷村の庁舎等用地31,000㎡の共同使用について合意した。同年9月工事着工、平成9年3月完成。
 パラシュート降下訓練は、平成8年7月9日以降行われなかった。昭和54年の調査以降、訓練実施回数186回、降下人員6,877人であった。
 平成8年12月、SACO(沖縄に関する特別行動委員会)は「パラシュート降下演習が伊江島補助飛行場に移転され、また、楚辺通信所が移設された後に平成12年度末を目途に、読谷補助飛行場(約191ha)を返還する」ことを報告した。
 平成11年10月、日米合同委員会はパラシュート降下訓練を読谷補助飛行場から伊江島補助飛行場に移転することを合意した。一方、SACO返還条件の残りの楚辺通信所についても平成12年9月、キャンプハンセンへの移設工事及び物件撤去工事が完了する見通しが得られたとして平成17年5月末を期限とした駐留軍特措法に基づく裁決申請書を提出したことから同時期の返還見通しになった。
 このように昭和54年以降の読谷補助飛行場での降下演習等に対する抗議行動は、読谷飛行場の所有権回復を含めた戦後処理問題の解決、新しい村民活動の拠点づくりとしての位置付けから、単に演習抗議行動に止まらず、読谷飛行場を村民の手に取りもどし、転用計画に基づきそこに新しい村づくりをしていく闘いにもなった。抗議行動は、これまでの村民の闘いの中で最も長く厳しい闘いで あったにもかかわらず、それは村民の知恵と団結が見事に発揮された闘いであった。同補助飛行場には役場庁舎(H9)に引き続き、 隣接して文化センター(H11)が完成し、村づくりの拠点、村民活動の拠点として大きく華開こうとしている。

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